183コラム

銀座情報誌「銀座百点」の思い出                  

2,3日前、アングロファイル英國屋から送られてきた銀座百点の表紙を何となく見ていると、NO630という数字が目に入った。
単純計算で、毎月発行されたとして52年半、おそらく全国でこれだけ長い歴史を持つ地域情報誌はおそらく無いだろう。“さすがは銀座”というべきか。
そういえば、私は今から約40年前、6丁目のMIWA宝石店前JUNの隣のブティック、WINDSERに勤めていた。社長が元ボクサーとかで、小柄ながら迫力のある人だった。
いつも夕方近くになると5丁目から7丁目まで、自分の経営する数件の店のディスプレーをキャデラックで見回っていた姿を今も思い出す。

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店長は大島さんという快活な女性で、ご主人が日活のカメラマンだった。
その主人にディスプレーに役立つ色彩心理学や、遠近法などを教わったことが懐かしい。
当時、私は靴に凝っていて6丁目のフタバヤに、ツケが利く程通ったものだ。
安月給でそんな贅沢をしていたのでいつもピーピーしていたことを思い出す。
「ほてい」のカレーが確か90円、屋台のけつねうどんが120円、靴磨きが150円くらいだったのに、小松ストアの隣のバニーガールのいる喫茶店のコーヒーが一杯500円だったということが、何故か、一番記憶に残っている。
現在の貨幣価値に換算すると5000円くらいか?
月給が2万円足らずだったことを思うと、さもありなんか。
当時、ウインドーディスプレーは、一日2度、飾り換えていた。
社長から、“銀座は昼間と夕方からの客層がまったく変わるのでショーウインドーの商品もそれにあわせて換えなければならない”と言われていたからだ。
販売員が私以外は女性ばかりということもあり、その役目は私が受け持っていた。
だから、よく競合店の花菱、ミドリや、田屋あたりのウインドーを覗きに行ったものだ。
おしゃれな人たちが歩くみゆき通りにちなみ、みゆき族という言葉も流行っていた。
4丁目の丸いビル「三愛」が銀座のランドマークだった。その当時既に銀座百点はあった。
表装も中身の構成もほぼ当時と殆ど、いや、全然変わっていないといった方が適当かもしれない。
だから余計懐かしさがこみ上げてくる。然し、創刊以来半世紀、変わらぬ「銀座百点」と較べると、銀座の「街」の変わりようにはいささか複雑な思いだ。
海外ブランドのショールームと化したかのような銀座、行くたびに老舗が消えていく銀座の姿を見るにつけ、これまで銀座の街のすべてを肯定し続けてきた私にも心が揺らぐ。
もう一度あの頃の銀座に戻って欲しいと願いながらも、今月もまた、銀座第一ホテルへ泊まり、7丁目の「たらふく」でひれ酒を飲み、電通通りから並木通り、西5番街、すずらん通り、それから三越、松屋をダダ妻をあやしながら、ハイカイの予定である。
もちろん「銀座百点」を送り続けてくれるアングロファイル英國屋には立ち寄るつもりだ。
竹の繊維でできた、ランバンのジャケットスーツの着心地の報告も兼ねて・・・

2007年05月02日
 
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